新温泉について
球磨木炭と永見商店
新温泉の創業者である永見三郎は山口県下関市出身でした。古くから林業が盛んで、良質な木炭の材料となる森林資源が豊富な球磨人吉地域に商機ありと見た三郎は現在の球磨郡多良木町で起業、その後人吉駅前通り、現在の人吉市下青井町に薪炭商「永見商店」を構えました。
球磨人吉地域における木炭製造は数百年前から行われていたようですが、発祥に関する確かな記録は少なく、詳しい歴史は定かではありません。しかし、戦国時代の島津氏の家臣であった新納武蔵守忠元(にいろむさしのかみただもと)が肥後と薩摩の国境に境界標識を立てる際に木炭を一緒に埋めたという記録があるようです。16世紀中頃に種子島を通じて伝来し、戦国時代に普及した鉄砲の火薬は黒炭、硫黄、硝石を原料とする黒色火薬ですから、生活のエネルギーとして、軍需物資として黒炭製造は古くから盛んに行われていたことでしょう。
急峻な山に囲まれた人吉盆地は陸の孤島であり、そこで生産される球磨木炭も主に域内消費のみでしたが、1664年(寛文4年)に人吉藩の御用商人であった林藤左衛門正盛が球磨川に水路を開削した時から地域外での販路開拓が始まりました。人吉は藩政時代から良質な黒炭の産地として定評がありましたので、1846年(弘化3年)には相良藩が球磨川を通じて他藩に輸出する木炭の検査を人吉で行った記録があり、江戸後期には製炭が球磨人吉地域の産業になっていたことが伺えます。
1881年〜1882年(明治14年〜15年)頃に五木村、深田村で銅山の創業が盛んになり、そこで採掘した銅を錬精するために、古来より製鉄に利用されていた白炭が利用されます。この白炭を製炭するために豊後(大分)から職人を招聘したことが、球磨人吉における白炭製造の始まりであったようです。
1884年(明治17年)に一武村で和歌山県発祥で樫の木から作られる紀州式木炭、いわゆる「備長炭」の生産に成功し、八代ー人吉間の鉄道開通から2年後、前述の翠嵐楼が開業した1910年(明治43年)に球磨木炭同業組合が製造業者106名、販売業者18名で設立総会を開いています。
日本の製炭技術研究における第一人者の岸本定吉先生の著書である「炭」の中に「大正時代、熊本県人吉市の永見商店は上日向、児湯米良地域で大量の備長炭を製炭したことがあった。製炭夫は紀州出身のものが多く、カシを炭材とした。」という記述がありますので、永見商店では球磨人吉で生産されていた黒炭の他にも高価なカシ材の白炭まで幅広く製造・販売していたようです。
その後、第1次世界大戦(1914年7月28日ー1918年11月11日)の好景気、1924年(大正13年)の湯前線の開通により生産・販売量も拡大し、球磨木炭業界は飛躍的に成長します。1931年(昭和6年)11月に熊本平野で陸軍特別大演習が行われた際には、行幸あそばされていた昭和天皇の勅使として侍従の海江田幸吉子爵が11月17日に球磨木炭同業組合が管理していた球磨郡木炭検査所を訪れています。
この陸軍特別大演習では、熊本県下で生産されていた物産が天覧品として披露されました。行幸地となった熊本蚕業試験場の会場には三郎が出品した白炭も展示され、熊本県がまとめた「昭和六年陸軍特別大演習並地方行幸熊本県記録」の天覧品目録に「白炭 三俵 六千円 球磨郡多良木町 永見三郎」と記載があります。天覧後、出品した白炭は産業奨励のための御買上品となりましたので、三郎も大いに名誉であったことでしょう。
三郎はこの天覧品とする木炭の材を球磨村一勝地近隣の山から調達したようです。球磨村は村の88%が山林であり、現在もスギやヒノキなどの良質な木材を生産しています。三郎が組合長を務めていた1933年(昭和8年)の記録では、総生産高は約230万俵(約34,500トン)、当時の木炭生産量全国第3位の熊本県下で生産される8割を球磨木炭が占めていました。県外への販売量は1,126,367俵(約16,900トン)もありました。
より効率的な木炭製造方法を開発するべく、木炭同業組合は研究にも取り組みました。三郎は1934年(昭和9年)に設置された矢岳製炭試験場の責任者(場長)を務め1937年(昭和12年)に当時の球磨木炭の製造ノウハウが詳細に記した「改良黒炭窯並白炭窯製炭試験成績報告」を編纂しています。
三郎の温泉掘削事業
熊本県下でもトップの生産量を誇った球磨木炭を取り扱う薪炭商の事業で得た利益、私財を投資し、三郎は人吉の中心市街地で温泉掘削事業に着手します。当時の温泉掘削は多数の職人を雇い、1年以上かけて作業するため、相当な費用を要する事業であり、温泉を持つことは今風に言うと企業の社会的責任(CSR)、ブランディングやステータスのようなものであったようです。
1930年(昭和5年)に南泉田町に三郎の温泉事業の第1号となる公衆浴場「昭和温泉」が開業します。当時はまだ新しかった元号「昭和」を名前に冠し、人吉で初のネオンサインを備えた昭和温泉は高層建築が少なかった当時は人吉駅からも良く見えたそうです。当時の新聞記事では「工事未完成なるも浴場広潤にして清楚、温泉の湧出量また実に豊富なるを以って一般浴客の歓迎するところなり無い日の浴客数千の多数に上って居る。」とあり、大変繁盛していたようです。また、同温泉では毎月第一日曜日を「昭和園デー」と称して、当日の売上全額を同じく昭和を名前に冠した幼児保育施設の「昭和園」に寄付していたそうです。
昭和温泉に関する記事が掲載されていた球磨日報(昭和5年7月6日付)には温泉の濫掘防止のために組合が発足したこと、有志の座談会で宿屋が温泉を求めていること、町営での源泉開発が必要なことなどが盛んに話されていたことが記されており、当時の温泉開発に掛ける期待が伺えます。
翌1931年(昭和6年)、三郎は永見商店の倉庫があった紺屋町に新たに公衆浴場を開業します。自身の父の名前である「新三郎」から「新」の一文字を取り、「新温泉」と名付けました。現在では古い佇まいとなり、お客様によく「古い温泉なのにどうして新温泉なのか?」と尋ねられる名前の由来です。
昭和温泉、新温泉や三郎が関わったその他の温泉は全て現在の千葉県君津市小糸・小櫃で明治中期に確立し、国指定重要無形民族文化財にも認定されている深井戸掘削技術の「上総掘り」という技法で掘削されています。「上総」は千葉県中央部の古い国名であり、この地域から人力で150〜500メートル程度の井戸を掘削できる技術が上総式の深井戸堀り技法として全国に広まったのです。上総掘りは、「ヒゴ」と呼ばれる竹製の細い棒の先に「ホリテッカン」と呼ばれる長さ4〜7メートル、直径3〜6センチの金具を吊り下げて地面を突いて竪坑を掘削します。
このヒゴとホリテッカンを用いた作業のために組む弓式足場は様々な部材で構成されており、新温泉の掘削時にもこれらの仕組みを収めるための巨大な足場が作られました。新温泉はまず試し堀りで温泉の湯脈があることを確認した後に本格的な掘削に着手しました。試し堀りでは洗濯に使える程度のぬるい湯が出ましたが、十分な温度と湯量がある現在の源泉を掘り当てるまでには数回の掘削が必要だったようです。当時の作業風景を写した写真には、奥の足場は浅い井戸を短期間で掘るための「平足場」と深い位置まで掘削するための「揚足場」の2つの足場で異なる高さを同時に堀り進めていた様子が写っています。
長期に渡る作業の末に深度およそ300メートルの源泉から湧いた温泉は植物起源の有機質を含み飴色がかったモール泉でした。写真に写っているパイプの高さから掘削当時は1メートル以上自噴するほどの湯量があったことがわかります。
昭和温泉に始まる上総掘りによる温泉開発の経験を活かし、三郎はその後、一勝地で生活用水のための井戸堀りも行ったようで、そのご縁により永見家は球磨川を眼下に望む一勝寺の檀家となりました。また、親交があった人吉市内の鍋屋旅館の温泉掘削にも関わっていたようで、鍋屋旅館の最初の温泉掘削に立ち会った写真が残っています。
参考資料:
- 昭和六年陸軍特別大演習並地方行幸熊本県記録 熊本県(1934年(昭和9年)発行)
- 九州の観光 第七巻六十八号 九州旅館連合会・観光の九州社(1934年(昭和9年)発行)
- 改良黒炭窯並白炭窯製炭試験成績報告(1937年(昭和12年)発行)球磨木炭同業組合矢岳製炭試験場 永見三郎編
- 上総掘り 深井戸掘削の技術(2011年(平成23年)10月12日発行) 君津市立久留里城址資料館
- 千葉県:上総掘りの技術
- 熊本県:球磨村紹介
- 広報ひとよし No. 990(2013年(平成25年)7月号) 人吉市
- 第16回 ふるさと探訪 深田銅山(2016年11月11日) あさぎり町中部ふるさと会
- 球磨川下りに見る観光人吉の歴史 一般社団法人青井の杜外苑街作り協会(2021年(令和3年)2月13日発行)
- 人吉のあゆみ(明治時代以降) 一般社団法人青井の杜外苑街作り協会