新温泉と水害

戦争と水害の記憶

明治、大正を経て多くの人々の尽力により盛況となった人吉温泉と観光産業ですが、大自然の力や大きな時代の流れの中で苦労した時代もありました。

1937年(昭和12年)に盧溝橋事件を発端に日中戦争が勃発し、国家総動員法が公布されるなど、日本全体が戦争に向かって進んで行きました。1941年(昭和16年)に太平洋戦争・第2次世界大戦が開戦し、旅行規制が強化されると共に、戦争による物資統制が始まります。この時期、人吉を走るバスは木炭バスに切り替えられており、三郎が経営していた永見商店も燃料となる木炭を供給していました。

1942年(昭和17年)に市制が始まり、人吉市が誕生したころ、もはや世の中は個人が娯楽を目的に自由に旅行を楽しむという状況ではなくなり、球磨川と温泉で観光振興を進めてきた人吉ではありましたが、人吉温泉祭りや球磨川下りも一時休止となりました。

1943年(昭和18年)には人吉海軍航空隊の基地が錦町や相良村に建設されました。戦争末期の1945年(昭和20年)5月には米軍機が来襲し機銃掃射しました。この際に銃弾が新温泉にも着弾して浴場の床を削ったと先代が話していました。同年8月15日の終戦から3年後の1948年(昭和23年)に人吉温泉祭りと球磨川下りが9年ぶりに復活し、新温泉も人吉の町とともに戦後の復興に歩み出しました。

球磨川は恵みを与えてくれる存在であると同時に、古くから「暴れ川」として畏れられる存在でもありました。新温泉も開業以来、台風や豪雨による水害で被災すると共に、その記憶を今に留めています。温泉の壁には2代目の永見八郎が過去の水害の水位を記したプレートが並びます。

令和2年7月豪雨以前で最も被害が大きかった水害は、1965年(昭和40年)の7.3大水害でした。この水害では、水位が新温泉の天井近くに達しました。当時の事を知らないお客様は背丈を遥かに超える高さのプレートに驚かれる方が少なくありませんでした。

令和2年7月豪雨

自然災害は、突然に猛威を奮います。2020年(令和2年)の7月4日、線状降水帯により未明から続く豪雨により、新温泉脇を流れる球磨川支流の山田川の堤防が決壊し、新温泉を含む紺屋町界隈は一気に泥流に飲み込まれました。水位は昭和40年の7.3大水害よりも高く、新温泉の屋根上まで浸水しました。これまでの水害は球磨川の増水に伴い、山田川などからバックウォーターが起こって徐々に浸水するケースが多かったため、自宅の2階に物品を運ぶことが出来た場合もありましたが、今回は堤防の決壊により濁流が新温泉前の駐車場に渦巻く程に流れ込み、身一つで母屋の2階に逃げることしかできませんでした。

屋根の高さを越える水位
堤防が決壊した時間で止まった時計
山田川の堤防、橋が見えない程の水位
最も水位が高かった時間。
水が引いた直後の男湯脱衣所
水が引いた直後の女湯脱衣所

水が引いた後の新温泉は変わり果てた姿になっていましたが、温泉の建物そのものは崩れることなく残りました。しかし、源泉、ボイラー設備、建物内の深刻な被害により、すぐに復旧・営業再開することは難しく、休業したまま現在に至っています。

脱衣所に残った泥
泥に埋もれた浴室
山田川の堤防決壊箇所

被災直後は内部まで泥が溜まっていた新温泉ですが、ボランティアの方々の尽力により片付けることができました。最近、ボランティアの方の一人から連絡があり、公費解体でただ解体してしまえばゴミになるが、きれいに解体して保管しておけば、後々再建する、もしくは別途資材の活用法を探すということも可能になるがどうかという提言をいただきました。たしかに公費解体でただ解体すれば廃棄物となりますが、何かしら残す方法があるのならそれが良いと考えるようになりました。

重機による泥の撤去
温泉内を片付けるボランティアの皆さん
2020年7月17日付の熊本日日新聞記事

新温泉ような建物はあとからそれらしい建造物を建てても時間が醸す雰囲気や建物の存在感を再現することは難しく、熊本地震の際にも古い建物を解体した後に悔やむ声があったと聞きます。新温泉はこれまでもテレビ、雑誌といったメディアにも数多く取り上げていただいた他、県内外から多くの方々が訪れてくださいました。それはやはり新温泉の建物が持つそのような時間が醸し出した魅力によるものと考えています。