人吉温泉の歴史

人吉の観光産業振興と温泉開発

人吉の観光産業振興は1908年(明治41年)の八代ー人吉間の川線開通、翌1909年(明治42年)の人吉ー吉松間の山線開通による九州縦貫鉄道である鹿児島本線の完成から始まったものと考えられます。後の肥薩線となる川線の開通はそれまでは球磨川に頼っていた人と物の往来に大きな変化をもたらしました。

1910年(明治43年)に翠嵐楼の初代当主の川野廉(かわのきよし)氏は鉄道の開通に合わせて林村(現在の温泉町)に温泉を掘削して旅館を開業されました。また、同氏は鉄道の開通により物流の手段として廃れていた川舟を風光明媚な景色を遊覧する手段とすることを発案され、1913年(大正2年)7月15日に翠嵐楼前を発船して芦北郡白石までの区間を遊覧する初の球磨川下りが行われました。

1918年(大正7年)から1921年(大正10年)には世界中で流行したスペイン風邪が日本でも猛威を振るい、現在のコロナ禍と同じく旅行や観光どころではない状況となりましたが、1922年(大正11年)には川野氏が学んだ大江義塾の主催者であり、同時代の思想家・ジャーナリストでもある徳富蘇峰氏が球磨川下りを楽しんだことが記録に残っています。

1927年(昭和2年)に新日本八景の選定を大阪毎日新聞と東京日日新聞が主催しました。人吉球磨地域も団体や市民による熱心な運動を行い、球磨川が日本25勝の一つに選定されるに至りました。この企画は鉄道省(後の国鉄、JR)も後援しており、現在で言うところの観光ガイドである「日本案内記」を制作、これにより鉄道旅行ブームが到来しました。

日本案内記の九州編の人吉譚には人吉温泉、球磨川下り、人吉城市、大村横穴群、青井阿蘇神社といった人吉のおなじみの観光名所が紹介されています。

日本案内記九州編人吉譚
日本案内記九州編九州地方地図(五)

同じ年に、前述の川野氏がパノラマ風の観光案内図である「初三郎式鳥瞰図」で有名な吉田初三郎氏に依頼し、球磨川や人吉の名所情報を含む翠嵐楼のパンフレット「人吉温泉翠嵐樓を中心とせる球磨川下り名所案内」を発行しました。人吉を含む鳥瞰図は他にも吉田初三郎氏の弟子である金子常光氏が描いた「人吉町と球磨川下り」があり、こちらには市房から八代までの球磨川全域の名所が描かれています。

この頃、人吉町が日本の国立公園の父である田村剛博士に「人吉公園計画説明書」の策定を依頼します。球磨川下りの定期船に補助金を交付したことで、それまでは旅館が個別に手配することが多かった球磨川下りに週末の土曜日、日曜日にの定期便が登場します。

1928年(昭和3年)には、門司鉄道局が球磨川下りのパンフレットを発行するなど、球磨川を中心にした官民総出の観光ブームにより、観光都市としての人吉の街作りが本格化するとともに、薩摩瀬下屋敷において温泉が湧出し、1929年(昭和4年)中央温泉を皮切りに人吉の市街地における温泉掘削が盛んになりました。これ以降、次々と源泉が掘削され、現在では五日町から温泉町にかけて約50の源泉が存在します。

人吉の観光振興

1933年(昭和8年)に人吉町と大村が合併し、製材業を営む実業家の高島愛之町長が就任しました。高島町長は温泉協会の会長も兼任しておられましたが、同協会の副会長を球磨木炭同業組合長であった三郎が引き受けました。当時の人物評によると、「県下町村長会の開催せられたる際の如きは自ら陣頭に役場の小使然として受付に接待に案内役に懸命の努力をしたものだ。」とありますから温泉協会の実務に熱心に関わっていたようです。

1934年(昭和9年)に人吉町役場に観光課が設置され、宣伝活動、絵葉書やパンフレット等の宣材制作、球磨川下りの補助、観光客誘致活動を開始し、九州各県で開催された博覧会で人吉温泉をPRしていました。当時を知る親戚の思い出話には、三郎が博覧会などで上映するために、球磨川下りをしている風景を親戚をモデルにして撮影し、今で言う「観光PRビデオ」を制作したこと、隣県の宮崎の博覧会に参加したこと、人吉温泉祭りの開催や運営に奔走したことが語られていましたので、三郎は本業の傍らで人吉の観光振興に本当に熱心に取り組んでいたようです。

1937年(昭和12年)の人吉観光温泉祭記念写真。

人吉市内に残る公衆浴場

一般に「銭湯」と呼ばれる施設は、「公衆浴場法」という法律で「温湯、潮湯又は温泉その他を使用して、公衆を入浴させる施設」と定義されています。まだ各家庭に専用の内風呂が設置されていなかった時代は、「地域住民の日常生活において保健衛生上必要なものとして利用される施設」とされ、生活インフラの一部でありました。

「銭湯」の入浴料金は、終戦直後に公布された「物価統制令」という法令で一定の額となるように制限されています。この入浴料金の設定は、都道府県ごとに知事が上限額を決定しており、概ね300円台半ば〜400円台後半程度の料金になっています。

人吉市内の温泉の多くは、古くは翠嵐楼に代表されるように、旅館・ホテルに併設されているものが多いですが、大正後期〜昭和初期に新温泉の創業者である永見三郎のように、住民が気軽に利用できる銭湯を市内に建設する事業者も現れました。今日も残る人吉市内の銭湯の多くは創業当時の姿を保ち、市街地に住民に親しまれる銭湯が佇む人吉独特の景色を形作っています。

創業1921年(大正10年)

創業1931年(昭和6年)

創業1934年(昭和9年)

創業1937年(昭和12年)

創業1957年(昭和32)